本日

伊東も含めた飲み。
目に付くこと多々あったが、自分も同じようなもんかと思うと恥ずかしくなった。
伊東は怒られたことをわすれるらしい。
その点、自分も全く一緒。違いを生み出すためには?
やはり怒られたこと指摘されたことを振り返れるようなノート等が必要。
そのために、ようやくで恥ずかしいがこの日記をつけようと思い立った。

転職活動開始

今日、インテリジェンスのキャリアカウンセリングを受けて来た。
色々、現状を伝えると、「絶対転職した方がいい」とのこと。

現状興味を持っている業界・職種としては
MR、 インターネットサービス関連、商社、メーカー等。

KKもいくつか面接を受け始めているようだが、
前の労働環境に対して「あり得ない、ひどすぎる」という意見はもらっているよう。

オリンピック

浅田真央の涙に、思わずもらい泣きしてしまった。。。


その涙が彼女の今までを物語っていたように思う。

キムヨナにしても浅田真央にしても、
彼女たちの涙の意味はそれぞれ違うのだと思うけれど、
本当に本当に美しいものだと思う。

一つのことを突き詰めて努力して行く。
オリンピックという4年に一度の大舞台のために自分を追いつめて行く。

そしてそれまでの準備だけでなくて、
オリンピックという大舞台の本番で、
積み上げて来たものを全てぶつけなければならない。

すんげぇ厳しい世界だ。

だからこそ彼女たちの涙が美しく思えるのだと思う。

あんくらいの感動と涙を流してみたい。
いや、流せるくらいやるしかない。

北方謙三

本日の日経新聞にあった北方謙三の記事を読み、素直に感動してしまった。
以下抜粋。

                                                                                • -

私と読書」 by北方謙三

邪念のない読書は、心の中に街を作ってくれる。
心の街は、本を読むだびに広がっていく。最初は、同じような本ばかりで、似たような団地が立ち並ぶだけの街かもしれない。一軒家かもしれない。それでもいい。それでも続ける。次第に道ができ、カフェや花屋が建ち並ぶ。心の中の街で、いつしか豊かな生活が営まれていく。
心の中に「アナザーワールド」を作るということだ。底が自分のよりどころとなる。心の中野町が、あなたの「人間の力」を大きくしてくれる。
では何を読むか。情報だけのビジネス書を読むことを、僕は読書とは思わない。これは勉強だ。読書とは、想像力を刺激する行為だ。読む人次第で、ほんの価値は変わる。想像を膨らませることで、あなたの街も豊かになっていく。これが人間の大きさだ。少なくとも僕は、面白い街を作っている人間とつきあいたい。

本を読むということは自分と向き合うことでもある。そして小説は、人間の影に光を当ててくれるのだと、僕は思う。
たかが本、されど本。これでいいじゃないか。

                                                                              • -

自分はまだ読書歴が浅い。大学3年くらいから読み始めたので、まだ3年目くらいか。恥ずかしながら北方謙三という名前は知っていても本は読んだことがない。しかし上記の記事を読み、非常に興味を持った。ようやく自分も三国志を読む時期がやってきたのかもしれない。

特に印象に残ったのは下記の部分

「心の街は、本を読むたびに広がっていく。」

自分の頭の中にあったイメージが具現化されたような感覚だ。
時々(今もそうだが)無性に心をふるわせてくれるような書物を読みたくなる。それが昔は世界経済の本であったり、哲学のような本であった。世界経済を少しずつ理解することに興奮し、哲学的な考え方に触れることで自分と深く語り合う。そんな感覚に心がふるわされていた。サンドバックのように心がふるわされることで、自分が大きくなるような気がしていたのかもしれない。しかし最近はそれは一種の逃避なのではないかとも思った。
そういったことを欲しているにもかかわらず、今まで何故か小説は避けていた。自分の正確からして、必要以上に感情移入しすぎることを恐れていたのだろうか。心では欲しているにもかかわらず。


しかし今日の記事を読んで、北方謙三に非常に興味がわいた。彼の本を読んでみようと思う。まずは三国志からか。それとも史記からか。

自分の殻

今まで「自分の殻を破りたい」ということをしきりに思ってきた。

時々口にも出していた。しかし、思っているものの、「殻」が何であるかがわかっていなかったように思う。
週末ふらふらといつものように道を歩きながら考え、ふと行き着いた現段階での「殻」の実態は、特に自分にとっては「恥」なのではないかと思った。「恥」という強く頑丈な殻によって閉じ込められているのではないかと思う。
それこそ恥を承知で書くが、自分はかなり恥に敏感な方だ。恥に対する恐れも人一倍強いのだと思う。むしろ恥に対する恐れが自分を構成している大きな一部で有るのかと思う。いろんなことを始める際に、全体像をつかんでからでないと動き出しにくいという特徴は、ここからくるものだとも思う。そんな自分に危機感も持っている。この殻を破らないと飛躍できそうにないと。
このような性格は過去の自分の経験が元となっている。小学校卒業までは転校ばかりが続いた。幼稚園、小学校は共に3度ずつ変わった。平均して一つの土地に2~3年ほどしかいなかった。つまり、2年で自分の周囲の環境と築いたものがなくなり、ゼロからのスタートとなってしまう。幼いながらも年を重ねるにつれて、それが辛く、難しくなっていく。無意識的に感じていたのは、新しい環境に入っていくにあたってのポイントは、周囲に悪印象を与えないことであり、イコール、恥をかかないことであった。それは必要以上に周囲の反応を気にしてしまう性格へもつながっている。
自分はこれを、自分のマイナス面の一つであると思っている。思い切った1歩が踏み出せないから。1歩目が遅い。そんな自分を認識していた。そんな自分を
強制的に変えたいという思いも、この会社に入ったきっかけの1つとなっている。
自分を知っている友人たちには驚かれた。それまでの自分ではあり得ない行動で、それなりに有名な企業を志望していると普通に思われていたから。この会社に決めたことは、それまでの自分の中でも、周囲から見ても、実は大きな変化・決断の一つだったのである(今思うと当然の決断であったと思っているが)。
それはさておき、そんなマイナス面を認識しているからこそ、どこにでも飛び込んでいけるシンのような性格は、非常にうらやましい。勢いを感じるから。自分とは違い、どんどん前に進んでいくような印象だ。それをうらやましく思いつつ、良い刺激も受けている。
そんな思いを持っている自分ではあるが、今のG社の商材は中々最適なものであるのではないかと思ってきた。飛び込みで電話をかけ、話しを進めていく。もちろん断られることの方が多い。まさに1種の恥をかき続ける。用途が用途だけに入っていくには時間もかかるし、また現在の経済環境のせいもあり、簡単にはいかない。
しかし、今1社から(まだ1社だが)サンプルを送ってくれという所まで行った。うまく行くかはわからない。しかし、日本に入ってきたことのない商材を担ぎ、それを1からワークして納入まで至った時、自分は一つ大きな自信を得ることができるのではないかと思っている。根拠のある自信を。

採用

採用は難しい。

これは面接する素人の立場、一個人として感じたこと。
だから、深みもくそも無い。完全に視野の狭い個人的な内容。
採用責任者のYNからすれば笑ってしまうくらいレベルの低い内容かもしれない。
ただ、今感じていること・自分の無力さを残しておきたいと思うので書いてみる。


採用は難しい。
人の人生に大きな影響を与えてしまうと思うから。落としても、合格させても。
これを受け止めて、消化する器がまだ自分には無い。全く無い。
必要以上に候補者に感情移入してしまう。自分と重なって見えてしまう。

ただ冷静に考えて、その候補者がMSPにとって必要なのかどうかということを考えると
考えていたつもりだが、まだ自分は冷静な判断が出来ていないように思う。ファクトベースに立てていない。
「MSPの社員」として出なく、「澁谷隆太」として人を見てしまっている気がする。
そう考えると、自分は何なのか、自分はもしかしたらMSPのCIからずれているのではないか、とまで考えが肥大化してしまう。
意味がわからなくなる。

夜はさらなる候補者の掘り下げと打ち上げも兼ねて
候補者2人を交えて食事をした。
食事の場、正直それどころではなかった。
上記のような考えが深まり(Umicoreの件も合わさり)、食欲も大して進まない。

感情を制することが出来ないのだ。
なんてしょぼい。

自分がある候補者を押していたせいもあって、上記の機会ができたのに
本人はそれどころではなかった。
なんというか、情けない。
「採用活動」ということを自分はナメていたのだろうか。決してそんなつもりは無かった。


そんなことを考えると、採用責任者のYNのプレッシャーは恐ろしいはずだ。
こんなプレッシャーの中で最善の採用活動をすべくあらゆる手を尽くしている姿を想像すると、頭が上がらない。


ただ、こんな自分ではあるけれども、「MSPにとって」最善の形で中国採用を終わらせたいと思う。


11月は中々タフな月だ。プライベートなことも仕事のことも、いろいろなことが重なってくる。
しかし、止まっている時間など無い。前に進むしかないのだ。

デザイン

【デザインに関して】

若干わかりにくい表現になってますが、ご了承ください。


本日、六本木のミッドタウンで開催されているDesigntide Tokyoに行ってきた。
ミッドタウンを舞台にいろいろなデザイナーが自分の作品を展示している。
明日は神宮外苑のTokyo Design Weekに行こうと思っている。

不思議とデザインには昔から興味がある。
書店に行くとほぼ必ずデザインやインテリア、建築関係の書物・写真集が置いてある箇所に行って目を通す。
リラックスするというか、気分が晴れるというか、一方でわくわくするというか、そんな感じである。
また、従兄弟が実際にデザイナーをやっているので、彼の家に行って今作成中の案件を見たり、話を聞いたりするのはかなり面白い。
確かに「デザイン」は好きなのだが、自分は絵がヘタであり、工作なども苦手である。基本的に不器用。
だから自然と自分を表現する手段が「写真」や「文章」になっていったのだと思っている。
「写真」は風景の切り取り方であるし、「文章」は構成と言葉の選択だから不器用な自分でも可能なのである。


昔、従兄弟か誰かから聞いた。
「デザイン」という仕事は、インスピレーションや想像力ばかりが重要と思われがちだが、
意外と重要になってくるのは「論理性」だと。

例えばコップをデザインするとする。
最初からイメージを膨らませるのではなく、まず「コップ」の要素を分解するのである。
つまり、「コップがコップである理由」に分解するのだ。
例えば、コップの基本機能・条件はというと

「中に含む物質を移動させる」「中に含む物質を漏れないように保持する」「飲む」etcなどである。

それらの要素一つずつを揃えたり、ずらしたり、時には崩したりして、ギリギリの所でコップを表現するのだ。
そう考えると、自分たちが「コップ」と思っているものが、如何に曖昧かが見えてくる。
姿・形的には、境がわからないのである。

例えば普通の丸いコップをイメージする。
少し直径を広げてして、その分高さを低くし、台形型にすれば茶碗にもなる。
逆に直径を短くして、高さを高くすれば花瓶とも言える、等々。
どこからがコップで、どこからが茶碗or花瓶かは、非常に抽象的であり、
感覚的に判断しているとしか言わざるを得ない。

いまふと思ったのだが
現代建築・デザインなどは本質を押さえつつ、それ以外の要素を自由に表現したものであるが、
昔の建築・デザインなどは本質を究極的にシンプルに表現したものなのかもしれない。
だからこそ後世に語り継がれるのではないか。


「対象物を、要素に分解して考える」ということ、
プロダクトデザインに置いて、それは汎用品になればなるほど難しいことであろう。
「コップ」など、自分たちの頭の中にイメージが染み付いてしまっている。
いわば、固定概念に取り付かれている、常識に取り付かれているのである。
そういったものを一つ一つ壊していって、「自分なりの解釈」を持って
対象物を表現しなければならない。

対象物を要素ごとに分解し、整理し、自分なりの解釈を持って表現しなければならない。

いわば、デザイナーは究極の「反転思考」&「論理的思考」&「自我」の持ち主でなければいけないのではないだろうか。
固定概念・常識にとらわれてしまってはダメであるし、
とらわれていなくても、自分なりの”解釈”を持って自分自信を表現しなければならないのである。
これで、デザイナーやアーティストがかなり個性的な性格を持っていることが理解できる。
実際に、自分の従兄弟も強烈な個性の持ち主である(笑)。


以上のような考えを踏まえると、
MSP社員は、MSP社員たるためには、
いろんな意味での「デザイナー」でなければいけないのかもしれない。