デザイン

【デザインに関して】

若干わかりにくい表現になってますが、ご了承ください。


本日、六本木のミッドタウンで開催されているDesigntide Tokyoに行ってきた。
ミッドタウンを舞台にいろいろなデザイナーが自分の作品を展示している。
明日は神宮外苑のTokyo Design Weekに行こうと思っている。

不思議とデザインには昔から興味がある。
書店に行くとほぼ必ずデザインやインテリア、建築関係の書物・写真集が置いてある箇所に行って目を通す。
リラックスするというか、気分が晴れるというか、一方でわくわくするというか、そんな感じである。
また、従兄弟が実際にデザイナーをやっているので、彼の家に行って今作成中の案件を見たり、話を聞いたりするのはかなり面白い。
確かに「デザイン」は好きなのだが、自分は絵がヘタであり、工作なども苦手である。基本的に不器用。
だから自然と自分を表現する手段が「写真」や「文章」になっていったのだと思っている。
「写真」は風景の切り取り方であるし、「文章」は構成と言葉の選択だから不器用な自分でも可能なのである。


昔、従兄弟か誰かから聞いた。
「デザイン」という仕事は、インスピレーションや想像力ばかりが重要と思われがちだが、
意外と重要になってくるのは「論理性」だと。

例えばコップをデザインするとする。
最初からイメージを膨らませるのではなく、まず「コップ」の要素を分解するのである。
つまり、「コップがコップである理由」に分解するのだ。
例えば、コップの基本機能・条件はというと

「中に含む物質を移動させる」「中に含む物質を漏れないように保持する」「飲む」etcなどである。

それらの要素一つずつを揃えたり、ずらしたり、時には崩したりして、ギリギリの所でコップを表現するのだ。
そう考えると、自分たちが「コップ」と思っているものが、如何に曖昧かが見えてくる。
姿・形的には、境がわからないのである。

例えば普通の丸いコップをイメージする。
少し直径を広げてして、その分高さを低くし、台形型にすれば茶碗にもなる。
逆に直径を短くして、高さを高くすれば花瓶とも言える、等々。
どこからがコップで、どこからが茶碗or花瓶かは、非常に抽象的であり、
感覚的に判断しているとしか言わざるを得ない。

いまふと思ったのだが
現代建築・デザインなどは本質を押さえつつ、それ以外の要素を自由に表現したものであるが、
昔の建築・デザインなどは本質を究極的にシンプルに表現したものなのかもしれない。
だからこそ後世に語り継がれるのではないか。


「対象物を、要素に分解して考える」ということ、
プロダクトデザインに置いて、それは汎用品になればなるほど難しいことであろう。
「コップ」など、自分たちの頭の中にイメージが染み付いてしまっている。
いわば、固定概念に取り付かれている、常識に取り付かれているのである。
そういったものを一つ一つ壊していって、「自分なりの解釈」を持って
対象物を表現しなければならない。

対象物を要素ごとに分解し、整理し、自分なりの解釈を持って表現しなければならない。

いわば、デザイナーは究極の「反転思考」&「論理的思考」&「自我」の持ち主でなければいけないのではないだろうか。
固定概念・常識にとらわれてしまってはダメであるし、
とらわれていなくても、自分なりの”解釈”を持って自分自信を表現しなければならないのである。
これで、デザイナーやアーティストがかなり個性的な性格を持っていることが理解できる。
実際に、自分の従兄弟も強烈な個性の持ち主である(笑)。


以上のような考えを踏まえると、
MSP社員は、MSP社員たるためには、
いろんな意味での「デザイナー」でなければいけないのかもしれない。