心を揺さぶられた葬儀

親友である、今楽天に勤めている高校部活時代からの仲間の母親が亡くなった。
58歳だった。自分の母親の1歳下だ。

先週から様態が悪化したとは聞いていたが
木曜に急に連絡が入り、金曜の午後から休みをもらって
お通夜、葬儀に出席してきた。

友人の母親ということで、決して参加する必要はなかったのかもしれない。
しかし高校時代何度かお世話になったことがあるし、
何より彼を励ましてあげたかった。
当時の部活仲間はどうしても予定を変更できなかった一人を除いて全員集まった。

式は、
失礼な表現に当たるかもしれないのだが、
非常にユニークな葬儀であった。

それは、無宗派による音楽葬。
葬式にはお坊さんなど一切来ず、音楽演奏がメインであった。

故人は音楽が大好きで、昔エレクトーンの講師をやっていた。
参列者は必然的に音楽関係の人が多くなり、親しかった人たちが
エレクトーンやらピアノやらで、音楽によるメッセージを故人に対して送っていた。
どれもが暖かいものだった。

非常に印象に残ったことが、
故人の中で「音楽」というものが人生の大きな軸であった点だ。
それゆえに、故人を知っている人には非常にしっくりと来た式だったのではないだろうか。
思わず考えてしまった。
「仮に自分の葬儀が行なわれる場合には、そんな軸となるものがあるのだろうか」と。
ふと浮かんだものは、自分が表現したもの=写真や文章などであった。
生きた証として、自分が見たもの・表現したものを最期に共有して欲しいと思った。


式が進む中で、死の背景が説明された。
ガンにかかり、一度は完治したかと思われたが、再発・転移し闘病生活を実に6年も送っていた。
最後は、選択肢が二つあったらしい。
少しでも回復を試みるために病院へ入院し引き続き闘病生活を続けるか、ホスピスと呼ばれる、いわば死を待つための最後の施設に入るか。そこで彼のお母さんは「もうこれ以上闘えない」との気持ちから、ホスピスを選んだ。

その選択をした日に書かれた手記、実質「絶筆」となるものが、喪主であるお父さんから、
参列者への最後の挨拶として紹介された。
その内容は、決して涙なしでは聞くことができないものであった。

病気にかかったことのあるものにしか分からない苦しみ、
普通に暮らせる・生活できることの幸せ、
病気に負けてしまうことに対する自分へのふがいなさ、
家族を残して先に逝ってしまうことの後悔の念、
そして家族への愛。

故人の親しい友人の方が挨拶の中で言っていた。
「6年も苦しい闘病生活を続けることができた理由、それは夫への、そして子供への愛だったのだ」と。

友人の母親ではあるのだが、「母」という人は改めて偉大だと思った。大きいなと思った。
「母」ではなく、「親」かもしれない。そして家族はすばらしいものだと。
経験した苦しみ、痛み、苦労、偉大さに比べたら、なんて自分はちっぽけなんだろうと。

友人は言っていた。
「自分には一切、苦しい一面を見せなかった。後悔ばかりだ。もっともっと親孝行をしたかったし、孫の顔も見せてあげたかった。」
泣きすぎてもう涙は出ないとは言っていたが、それにしても立派だった。


家に帰って話をしていると、ウチのオカンは言った
「でも、親にとって、子供は生きているだけで親孝行してくれてるのよ」と。
まさかオカンの口からこんな言葉が出るとは。
もうこれは親にしか分からない感覚なのだろう。


誰かが言っていた。

「あなたが無気力に生きた今日は、
昨日苦しんで亡くなっていた人たちが、
あれほど生きたいと願った明日」

上の言葉は、フィリピンに行く度にも強く感じる言葉。
改めて心に刻んだ。
精一杯、自分の生を全うしよう。

また明日から。
自分の人生を自分から盛り上げていくんだ。
そして、できたら周囲へそれを広げていきたい。