先輩の死

高校のバスケ部で一緒だった、1つ学年が上の先輩が昨日亡くなった。
バスケをしている最中に急に心肺停止となったらしい。

同じ部員として、2年間お世話になった。同じボールを追いかけていた。
本当に残念だ。


今日、訃報のメールが同期の部員から突然送られてきた。
その瞬間、北須磨高校の時の写真を掘り返した。たくさんはなかったが、そのときの先輩がいた。

もうあれから6年ほど経っている。

北須磨バスケ部での経験が今の自分の人格形成に大きく関与しているだけに、

なんというか、よくわからない感覚だ。

亡くなるのが早すぎる。自分より一歳年上だから、今年26歳。

未だにバスケを続けているということは、本当にバスケが好きだったという証拠に違いない。
そのバスケをしている最中に亡くなってしまった。

残酷だ。

代でめちゃめちゃ仲が良かった、先輩たちの代は、本当にショックだろう。

自分も、自分の代の誰かがもし亡くなったとしたら、本当に耐えられない気持ちになる。


この事実が示すことは、自分もいつ死ぬかわからないということである。


たぶん先輩は身体に全く異常がなかったはずだ。

そんな健康な人が、突然、急に、帰らない人となってしまう・・・。

やはり自分も、常に死と隣り合わせにいるということを意識しなければならない。

もしかしたら、明日死ぬことだってあり得る。

それを受けて、何を考えるか。

まずは

■ 自分の身体に気を配る。健康に気をつける。

これは当たり前すぎること。

今の自分は、自分の身体をなめ過ぎているかもしれない。

どこかで、「自分の身体は大丈夫だ」という思いを強く持っている。
はたしてそうだろうか。うぬぼれではないだろうか。
もっとよく考えなければならない。


■ 一日一日を精一杯生きる。

いつ死んでもいいように、と考えるのはこの年ではおかしいのかもしれない。

しかし、一日一日をやりきることで、自分のその瞬間までの人生は完結し、次につながる。
過去を悔やんでなどいられない。後悔などしていられない。
重要なのはその後の行動だ。

カーネギーの名著『道は開ける』にはこう書いてある。

「自分のことより大きな問題に無我夢中で、憎んでいるヒマなどなかった。私には他人と論争する時間も、後悔する時間もない。また、どんな人の力を持ったとしても私に屈辱感を与え、憎悪を植え付けることはできない。」

1分1秒たりとも無駄にできない。


■ 常に「感謝」の心を忘れない。

「感謝」は忘れやすい物だ。

まず、自分が生きていること、周りに生かしてもらっていること、健康な身体を与えてくれた親に感謝する。