『7つの習慣』を読んで

『7つの習慣』を読んで、5年以上経った今、高校バスケ部時代の経験からやっと学んだこと。

「ビジョンの欠如」=「努力の方向性の欠如」

高校の部活時代、
キャプテンでありながらレギュラーでない、という屈辱。
チームは兵庫県内の”公立”高校の中では、もっとも強い部類に入っていた。私立をあわせるとベスト8〜16くらい。

精神的にも相当追い込まれていた。
絶対誰よりも練習しようと、毎朝朝練に行き、授業後の部活では誰よりも遅くまでのこって居残り練習。
(ほとんど部員と一緒に帰ったことがなかった)
帰宅後は、友達を呼び出して一緒にランニング。勉強そっちのけで、ひたすらバスケに没頭した。
何よりも「レギュラーになりたかった」から。プライドもあったのだと思う。
「自分はこんなもんじゃない」「キャプテンでレギュラーじゃないなどかっこわるすぎる」。

結果、最後までレギュラーになれなかった。

最後の試合、明らかに負けが決まった最後の数分、試合に出た。

いわゆる「記念」である。

しかし、その数分、試合に出ている間から涙が出ていた。
必死に頑張った時間が終わるから。
あの感覚は忘れることができない。終わって行く感覚。

でもこの本を読んで、そのときの自分に欠けていたものに気づくことができた。
いや、気づいていたのかもしれないが、認めたくなかったのかも。
そのときは、今の自分でも考えられないくらいに必死だったから。
キャプテンになってから引退までの約1年間、相当辛かっただけに、
「良い思い出」として美化しておきたかったのだろう。

そのときの欠けていた物

それが「努力の方向性」である。

自分のポジションは背が小さいこともあり、ポイントガードだった。
簡単に言えば、ゲームを組み立てる役割である。

「どんなポイントガードになりたいのか?」

という“明確な指標”が欠けていたのである。
確かにレギュラーとしてコートに経ちたかった。しかし「どんなガードとして」が明らかに欠如していた。
ミスの少ない安定したガードなのか、点が取れるガードなのか、またはアシストで味方のゴールを演出するガードなのか、ディフェンスで相手のガードの動きを封じ込めるガードなのか。

正直、自分は「全部備えたガード」になりたかったのだろう。まさに完璧なプレイヤーに。
だからこそ、方向性が欠如していた。そして「捨てる」ことができていなかった。
例えば「点が取れるガード」を目指すなら、

シュート練習を軸として練習を組み立てて行けばいいのである。
しかし当時の自分は何もかも欲張り過ぎて、一つ一つの練習の質が低かったように思う。
全く計画性がなかったのである。若干悲観的な言い方をすれば、「ただ練習しているだけ」であったのではないか。
また上記に加え、「“今のチームには”どんなガードが必要なのか」という視点も欠けていた。

独りよがりだったのである。そういった意味ではチームのことが考えられていなかった。

確かに、レギュラーでないので、裏方の主将としてはしっかりと意識して動いてはいた。
しかし、肝心のゲームではそれができていなかった。でも当時はそれが自分の限界であったのだと思う。
精神的にも自分で追い込んでいて、ある意味余裕がなかった。必死すぎた。

しかし、それから6年経った今、その大きな失敗から学ぶことができた。

ただ単に焦ってがむしゃらに働いてるだけではなく、

「努力の方向性」

これを常に意識して働きたい。
そのためには明確な目標が必要だ。

今年はヨーロッパ事務所設立。

早すぎるのはわかっているが、食らいついていきたい。

読書は様々な視点を与えてくれる。
こういった新たな視点を得ることが「成長」とでも言うのだろうか。
いろんな経験をしている方が、本から得られることが多いような気がする。